納豆をまぜながら想う菌のこと、、、からの。

なにかがまた、ひとめぐりしたのだろうか。
それとも誰か、もしかして、ここをおもい出してくれたりしたのだろうか。


いつも、前置きが長すぎるので
これぐらいにして、と。


納豆は200回まぜろ、との教えを、
修行に精進料理が入っていた最後の世代(?)という和尚さんに
さらっと、伝えていただいて。


それは、やってみて、ピンとくるものがありすぎたので
けっこう律儀に、もうずっと、15年は、まもっている?


で、いろいろな、納豆をまぜて、食べてみて、
さいきんまた、すぐ近くでつくっている納豆が、
やっぱり、おいしいんだよな、って、
今日もまた、まぜながら、思い浮かんだ。


そうやって、納豆を、
ちょっとした意識をむけてまぜてきた歴史と
ぽつぽつ引っ越してきた人生と
注目してきたことと
そんなこんなが相まって
なにかのタイミングで


そういう、ひとつの、考え方、
みたいなカタチになって
言葉とつながると、
こういうふうに、
書きとめたり、
誰かに言ってみたい、
とかに、なるのだが。


なんで、近所の納豆がいいのかな、って。


ちょっと、積極的に、
おいしいものをいただきたい、
おいしいと感じるものしかいただきたくない、
いまの自分だけに、ぴったりくるものを!
というときに
思い浮かんだ近所の納豆・・・


それは、菌ちゃんの、何かだろうか、と。


納豆菌自体は、どんなものを使っているのか、知らない。
業務用納豆菌、みたいなもの、だとしても、だ。


発酵するときには、あたりの、その場所のなにかが、
きっと関わってくれているはずだ。
憶測。笑


そう、いいんだ。
そういう、ストーリーが、好きなんだ。


ストーリーを仕立てるには素材と理解が必要で
その理解には、科学が積みあげてきた遺産も
いつもとても助けになって。


だから、勉強とかしてきたことも
ほんとうにありがたくて。


けど、正しいかとか、詳細につきつめて調べるとか、
そういうことは、研究の世界を垣間みても、
ぜんぜん、好きになれなかったわたしが、
でも、そういうことも、今でも興味があって、
それはなんでなのか、なにが好きなのか、っていうと、
ストーリーを仕立てたいからなんだ、
それも、自分で。


自分の歴史と、興味関心と、、、そして、今。
いま、自分が、生きて、在って、
そう、世界とどんなふうに関わることができているのか、
それを、思いきり、たのしく感じることに、
わたしは、ストーリーがほしい。


物語としてつながったとき、
生きている感じがする。
自分を、今を。


で、やっぱり、住んでいる近くのなにがしか、
そう、それは、「情報」みたいな、
その辺りに漂う自然界の、みえない、なにかを、
菌ちゃんネットワークで、キャッチしてくれて、
そして、食べものというカタチで、
運んでくれている、という想像をして、、、


そして、成った、納豆を、
ありがたくまぜまぜしながら、
自分の気持ち、想いとあわせて、
そして、いただく。


そういうふうに、いただくと、
その、菌ちゃんがキャッチしたものを、
わたしも、いただける。


そして、それは、カラダさまが、
勝手に、どうにかしてくれる。


そういうふうだったら
まだまだ、たのしいなぁ、
みたいな、ぐらいの、ことを、
ものの数分で思い巡らせ、
そして、
まわりくどく書きとめると
これになるわけです。


しかしいったい、誰にむけているのか?
せいぜい、未来の自分???ぐらい、の感じで。

意識にあがるときにはすでに

とっくに、身体は、先に行っている。
だから、ここにきた。
だから、
辻褄はもういい。
あとから困る?
いえ、
そう決めるから
困るようなストーリーに
仕立ててしまうだけ。
だって
いつだって、
行ってみたら、
別に、
困らなかったじゃない。


詐欺みたい?
でも、嘘はついてない。


これまでだって、
思い込んだのはいつも、
わたしじゃなかった。


もう少し、聞いてくれたら、
もう少し、話したかもしれない。


いつだって、
急いでいるひとは、
自分の都合で
話をまわそうとする。
都合に合わせて
解釈する。
どんな材料も、
それに合わせたストーリーに、
仕立てているだけだ。



わたしは?


もう一度、
わたしの都合を、
確かめて。


あとは、それだけでいい。
いや、いやいやいや、違う。


それを一番にして。

誰かが決めた正解のなかで

高校のときの

化学の女の先生と、

担任だったこともあるやっぱり化学の女の先生と、

20代半ばあたりのときの職場の営業の・・

ちょっと優しくて業績的には残念な感じの営業の男の上司とが、

なぜか、出てきた。

 

 

夢の話。

 

 

わたしが、ちょっと、

『ダメ』なことをするのを

控えめに視線でさとすような

ついててくれるような

そんな役柄で。

 

 

わたしは公共の何かの施設みたいなところにいた。

もう閉館の時間で、

立場は利用者だったのか関係者だったのか、

ちょっとよく覚えていない。

 

 

奥のほうに、和室があった。

たしか、戸締り確認しなきゃ、

みたいな感じで行った気がする。

 

 

扉をあけたら、すごいことになっていた。

泥だらけ。

そして押入れの中に、なぜか、

地下茎でつながっているような、

地上部は枯れてるような、

イネ科みたいな、枯れた色の草が、

土に生えていて。

それが荒らされて、

地上部が引っこ抜かれて、

ブチっとちぎれた土だらけの根っこと共に

あたりに散乱している。

 

 

あきらかに、子どもが、

遊んで散らかしました~、

みたいな風で。

 

 

それだけじゃなく、

濡れてた土が握られてかたまった、

みたいな乾いた泥がゴロゴロっと

散らばっていて、ひどい有様。

 

 

これは・・・

このままでは帰れない、

しかし閉館時間、

どうしよう、ってのは一瞬で、

ほうきとちりとりをみつけて

ちょっと戸惑いながら掃き出した。

 

 

戸惑いは、

なんの断りもなくこの時間にそれをやって

良いのだろうか、しかし、

わたしが片づけたい、

みたいな、そんな気持ち。

 

 

隠さなきゃ、では、なかった。

勝手にわたしがやっては良くないよな、だけど・・・

みたいな、そんな感じ。

その、『だけど・・・』の奥の気持ちは、

よくわからない。

夢だから覚えていない、

というより、

リアルでもおこりそうな

自分の胸のうち、

ほんとうのところ、

って感じのもの。

『報告しなければ、

 そして、

 もしかしたら、

 あとは託して帰らねば』

みたいなことをわかりつつ、

そうは動けなかった、

しかし、なぜそうしないのか、

自覚はできていない、

そんな感じか。

 

 

片づけるなか、

人形かぬいぐるみみたいなものだったか、

棚の上みたいなところに並んでいたものにも、

泥がかぶっていたり、

ずり落ちそうになっていたり、

形が崩れていたりした。

 

 

ごめんね、ゆるしてね、って

言いながら立てなおしたりして、

それもちょっと、なんだか、

大事な感覚だった、わたしにとって。

 

 

そして、みつかった。

誰も何も言わなかったけど、

わたしがみえないところで、

化学の先生だった彼女が

『・・・わたしは何も言わないけど』

と言っているのが聞こえた。

ちょっと眼があったら、

気まずそうに眼を伏せた。

わたしがこうしていることは、

してはいけないことで、

気持ちわわかるけど、ダメよね、

みたいな確認を、わたしには言わず、

みんなでしていた、

そういう、感じだった。

 

 

それで、片づけのところは

どうなったのか、覚えていないが、

もう一人の女の先生だった彼女と、

上司だったおじさんと、

(すみません、今はわたしもおばさんです)

帰り道を一緒に歩いていた。

 

 

途中、そのおじさんに、

わたしは・・・自分がやっちゃダメなことだった、

みたいな話を、わたしからしたんだったか?

はっきりそんな話はしていないと思うけれど、

視線を送ったかなにか、きっかけがあって、

おじさんはわたしの肩に手を置いて、

わかるけど、やっちゃいけなかったよな、って、

ちょっとなんていうか、

若干さげすむような、同情のような、

けれどはっきり、あれはダメだよ、

みたいな、そんな眼をして、

別の道のほうに、別れて歩いて行った。

 

 

そのあと、もう一人の、

担任の先生だった彼女とふたりになった直後、

わたしは、自家中毒みたいになって、

苦しくなって、道の端っこにむけて、吐いた。

彼女は終始、何も言わず、影が薄かったが、

確かにずっとそこにいたと思う。

 

 

そのあたりで、起きた。

 

 

 

まず、感じたのは、

自分が大切にしたいこと、

というテーマ。

 

 

そこから、思考が動いていった。

 

 

ここ最近あたためながら検証していることと、

確実につながっている。

答えではない、ヒントのドラマが、

なぜこのメンツだったのか?っていうのは

笑えるところではあったのだけれども、

その3人には、一緒の場所にいた当時、

それぞれの哀愁をなんとなく、

しかしはっきりと、受けとるように感じ、

深くなにかが自分にもしみていった、

そんな風に印象深かった人たちだった、

それは確かだ。

夢のなかで印象的だった仕草や表情は、

そのまま、過去の彼らを思い出しても、

いちばん印象に残っている姿だ。

 

 

道半ばで、または、社会で生きる上で、

または、子育てをするなかで、

『仕方がない』をやっていた、

しかし、内心、どこか、

あきらめ切れていない、

そんな印象を、わたしに残していた人たちだ。

 

 

その後、どうしているのだろう。

 

 

たぶん、おじさん意外は、

今のわたしと当時の歳は、同じぐらいか、

もしかしたら、歳下ぐらいだ。

 

 

『うまくいく』って

どういうことだろう?

 

 

それは、比較で出るこたえではない、

自分の『うまくいく』は。

誰もがきっと、そんな想いは、

言われなくとも持っている。

 

 

ただ、その、

『うまくいく』が

社会で受け入れられるもの、

称賛されるもの、

価値を得られるものなのかというと、

そうではないと思っている。

もしくは、実際に、

わかりやすい失敗、という感じではなく、

価値がないという経験をした、

そこから動かずにいる、

そんな気配が、

覚えている彼らの表情からは

たちのぼってくる。

 

 

今の自分で

「社会に受け入れられる」

と想像することは、

果たして、

ちょっと先の自分のやることに、

当てはまるだろうか?

 

 

たくさんの今の出来事や想いが

交錯するなか、この夢に関して

先がみえないまま綴ってきて、

今日のところはここまでかな、

と出てきたのは、どうも、

そういうことのようだ。

 

 

なんで畳と押入れと土と、

地下茎のある、強そうな、

簡単には引っこ抜いて撲滅できないような

しぶとい草???

なんで??

と、途中から急に

そこが気になってきたなかだけれど、

今日はもうここまで!

塩で解く。美味い、と旨い。

1周まわって、
いや?
2周3周
ぐるっと巻いて。


再び、自分と出会うような
味覚からの気づき・・・


ということで
しばらくぶりに
ココでメモ◎


久しぶりにサンプルサイズでいただいた
『海の精 あらしお』の美味しさに
しばらくスルーしていてゴメン!
やっぱり日本の海の塩、最高!
今度、そうだ、
セールじゃないところ、
近所のあのいつもお世話になっているお店で
ちゃんと買うよ〜
って思ってた。

が、いつもお米を5分づきとかで買うそのお店で、
赤いラベルの500gの『海の精 あらしお』をみた時には
手にとる感じにならなかった。
みて、マークはしといた!


そのすこし前に頼んじゃっていた、
魔がさしたみたいな、
なんか手が押しちゃった、みたいな、
『ゲランドの塩』
待って、これまで、
手、出したことなかったのに何で?

 

『海の精 あらしお』の方は
日本の海だったのに・・・

なんて、思ってた。
が。


そうだ、って、
梅オムスビするのに、これまたふと、使ってみた。
その前に、なめた。
味、しない(笑)
いや、海の精に比べたら、
なんだけど。

しないわけじゃないんだけど、
マイルドっていうか、
立つような、来る、っていうような、
味じゃない。

海の天日塩じゃのに、って、
拍子抜けするぐらいの味。
もしかしたら、
これまで買ってなかったのも、
どっかで味見して
そんな感じだったからか??も、知れない。
うん。


が、しかし!


まずは、、、
オムスビ、梅だったからと、
そのあと、米と塩だけで、食べてみた。
たしかに、やはり、
パッと立ちのぼる味でいうと、
『ご飯とあわん』みたいな
せっかちな感想になってしまう。


が!
なんだか、そのあと、
じわじわと、しかし結構、スルスルっと、
身体じゅうに、めぐる感じ、
行き届く感じがするのだ。
満たされる、というのがハマる。
そう、きっとそれは、
アミノ酸みたいな?
旨み的な!
ミネラル???
これがそれ?っていう。


そのあと、塩だけでまた舐めてみたり、
味噌入れたオムスビでもやってみた。
これは・・・
満たされる。
満足するではないか!


あれれ?
少なくとも今、わたしが欲している感じは、
間違いなく、コッチだぞ・・・


合っとるやないか、
自分の、
なんとなくポチッと!


聞いて、読んで、買ってみて、
使ってみる、
ちょっと浮気してほかのにしてみる、
比べてみて、もひとつ比べたくなる、
やっぱり最初のがよかった、
なるほど書いてあったこと納得、
しかし別のはここがよかった、、、


なんてのを、
繰り返してきて、
最近また、
ちょっと違うのが
使いたくなったりして。


その前しばらくは、
『カンホアの塩』
使ってたんだよね。
きっかけコスパで。
これ、苦味がある。
けど、パンチも効いてる。
冬の塩もみとか、
漬物にもけっこう合う。
味噌もこれでつくってみたりもした。


あと、もうひとつ、
サラサラも使いたくて、
モンゴル岩塩系のも常備して、
気分と料理の別で使いわけてた。


途中、頂きもので、
『加計呂間の塩』っていう粗塩が、
めっちゃめちゃ美味しかった。
蒸した芋とか、温野菜に
それだけつけて・・・
みたいなとき、最高だった。
しかし、かなり高級。
頂きものに留めた(笑)

 

いろいろブレンドしてあって
焼塩も加わって香ばしく、
ゆで卵やサラダに使うと
出汁的要素がいらない、
みたいなのは、まほろばの
『七五三塩』
これは、ありがたく
感謝デー価格のときにお迎えし、
チビチビ、アクセント使いしている。


そんな中、ふと
目にとまったこの、『ゲランドの塩』


これは、スープとか煮込みとかで
きっと実力を発揮しそう・・・


隠し味的に効いてくる
『旨い』塩だ。


で、オムスビにつけるなら、
味と相性はやっぱり『海の精』かな。
中身にゲランド使って
握るときの中指にチョン、は、
『海の精』とかね。


ウンウン。


やっぱり、好き。
こんなふうに
『おいしい・・・(じわ〜ん)』
ってのは、
生きてる感じする。


子どもも育って、
自分もだいぶん大人になって、
食べることへの熱は
どんどん下がってきていたけれど、
だからといってやっぱり、
私にとって、
ないがしろにできるもんではない。

どんなに他にやりたいことがいっぱいでも、
錠剤みたいので済ませるとかは、
無いな、やっぱり。


ってのと、
3周もしてくると、
また違った、
 人それぞれ、
 時それぞれ、
 場それぞれ、、、
 それぞれそれぞれ、、、
が、みえてくる。


そのときの指標はハッキリと、
『で、どう生きたいか』
に尽きる。


今はこの線、って思ったら、
その線の食べ方をすれば良い、
みたいのも、みえてきた、
カモ◎


それも、3周ならでは。
いくつかを身体で覚えてのちの、
回路を開いてのちの、
選ぶ自由、的な。

 

ふっふっふ。
ああ、やっぱり、
おいしいのはうれしくてたのしい。
出会いと気づきのブレンドが絶妙。

センサーから統合

肌がキャッチしていること、
鼻でかぎつけていること、
耳をふるわせていること、
食べものだけでなく味見していること、
眼は、ちょっと
休んでいてもいいかもしれない
みえないものを
感覚に変換してとらえていることにも
回路を開いて


それらを統合して
像をむすぶ


そんな時を、
ちょっとだけ、
毎日、、、