美、というカミサマ


散らし上手(散らかす、というより、散らす、な感じ)
かつ
飾りつけ場づくり上手
の息子さんをみながら

自分との違いを考察・・・

できれば
片づけていただきたいのだが、
と想うと
考察せざるを得ないのでネ☆

つまり、
わたしは
わたしにとって
片づいている
という状態を
手放したくない

どうしても
そこは
やめたくない
わけで。


あの子は
もう少し幼い頃は
片づけ上手でもあった・・・
ような気がするのだが。

簡単に
父親の血が
出てきたんでしょ、
なんとかしろよ!  と
そんなところで済むのなら
むしろ楽なのだが。


息子さんの年頃には
自分が自らやっていたことを
あれこれ思い出し

ただ単に男女の違いとか
性格の違いとか
環境の違いとか
しつけの違いとかではない
何かを見出そうとする、
そういうことが心底、
育児の面白みで
つかみどころなんだよな、
という嗜好?思考?回路の元、
このような考察に
向かう、という。


わたしは
机の上もタンスの中も
部屋全体も
筆入れの中も
学校のロッカーも
ノートも
美しく整えていた。

それは?
今よりも先生は厳しいというか
ゲンコツぐらいは
女子でもくらっていたけれど
先生が怖くて、とか
怒られるのが嫌で、とか
反省とか罰とかが面倒で、
とかでは、ない。
少しはあるかもしれないが、
それだけでは、
継続して、自分から、
身の回りを整えたい、という
動機には、さすがに、
ならない。
そんなに大人しい女の子では
なかったハズ。


で、床を
ていねいに
拭き掃除しながら
思いついたのが、

美しい状態が好き

ということ。


たぶんきっと
流れが滞るのが
気持ち悪かったのだ。

もし風のとおった跡が
目にみえるのならば
それが
すっ、と
遮られることなく
緩やかにつながって
抜けていくような
そういう状態を
好んでいたのだ。


草花や木や
雲や太陽の光、
土、虫、風のつくる模様、、、

そういうものの中に
いわゆる
秩序
のような在り方を
見出して
うっとりしていたような
チョット
時々、いや、しょっちゅう?
どこ見てるのか
わからないような
ぼんやりしたところのあった
わたしのことで・・・

その、好んだ美しさは、
線が揃っている、とか
面が整っている、とかの
2次元的な正確さの状態とは
違うかもしれない。


けれど
人工物で
流れの良い状態の空間を
つくろうとすると
ついつい何でも
揃えたくなっていたのかも
しれない。

そこのバランス感覚は
幼児の時点ですでに
何がしかの
規格による教育の効果が
働いていたのかもしれない。

そこが、
わたしの限界、
だったとすると。


息子さんの場合は
そういった枠を
どうも感じないのであって。



そこを、たとえば・・・



一人っ子だからって
古い家で自由だからって

自分の家のスペースは
すべて自分のものかのように
ふるまいやがって
この王様め!

あっ
そういう風に
育てちゃったのは
自分かよ?
チッ、しくじった!

・・・
みたいに感じると

すご~く
小さな穴からし
それをとらえることができず

もどかしくなったり
歯がゆくなったり
してしまいそうだけれども。

どうにもならないストレスに
はまりそうだけれども。


彼が、

散らかすだけではなくて
調和した空間づくりも得意だ、
ということを
見逃さないように
なるべく
彼に漂うすべてを含め
全体をながめるようにすると・・・


そこにあるものを使って
祭壇的な装飾をして
ロウソクに火をつけて
チョット神聖さすら漂う場を
ササッと仕上げたりする
空間把握力を
垣間みたりするにつけ・・・


美しいことに
心地よさを感じる感性は
通じるものがあるはずで。

そして
むしろその、

線が揃いすぎたりする
キッチリした整頓のカタチではなく
あるものが調和したカタチを整える能力には
一目おけるものがあるわけで。


美しくしよう、
美しくして気持ちよくなろう、

というより
もしかすると
美しい、の解釈も
それぞれ違うので

流れが良くなるようにして
お互い心地よい空間をつくろう、

ってなところで
合わせることは
できるはず。

という

創造的工夫に
持っていければ
良いのではないかと。


とはいえ。
あれこれ気がいって
好奇心いっぱいの
行動力もついてきた
10代の息子様ですからね。

ひとつ何かしたものを
そこに置いたまま
次の何かに向かって
あっちに出かけ
戻ったらまた違うことをやって
それはまたそこに置いて
ゴハンを食べて
あれ見て、これやって
また出かけて・・・

という姿も
また健全なもの
なのであって。

そこは
その点においては
空間を区切る、
というルールで
なんとかしてもらうことに
慣れていただく、という

そこのところの
調整には
本気を出す、
って感じか。

本気の出し方に
工夫が足りないのだな

あるいは

その、
調和のための
最低限のルール、
というところに
説得力が
なかったのかもしれないナ



と、考えると
わたしはなんとか
ヤル気になるかな(笑)

兄弟がいると
下の子に自分のものを乱されるのが嫌、
というのが
しまうキッカケになったり
するけれども。


そこが自由すぎるのは
ひとりっ子に
ついつい
親が遠慮していなかったか、
というのは
一応、念のため
振り返りどころか。



まあ、いずれにしても
また一段違う
ヒト と ヒト
との付き合いが
つづいていく
というだけのこと。

ならば

ねば、とか、べき、とか
原因と結果、とかでなく

抜けていくようにかろやかに
ゆるやかな線でつながる
流れにのった
創意工夫のものがたりに
共にエネルギーを注ぎたい。

真ん中には
あるものが調和して織り成す

という灯を
ともしていたい。

そういうことを
毎日の、ささいな
生活ゴトのすみずみに
浸透させていたい。