14歳ならもうわかる、社会的な死、というイメージ

あのときは、
ものすごく、
怖かった。


あとからあとから
あふれてくるような


ものすごく
奥底から
わきだすような


わなわなと
震えてしまうような


怖さがあった。


今は、
そういう怖さは、
驚くほど、
みつからない。


あのときも、
肉体的な死は、
ほとんど
こわくなかった。


ただ、
あなたがまだ
ちいさかったから
それもすこしは
あったかもしれない。


そんな話をしても、


「社会的な死って、わかる?」
ときいても、


「わかるよ」
とこたえるぐらいには
おおきくなって、


そういう話ができると
ますます
それは、
なんていうことはなくなる。


なかったことにはしない。
今でも、意識することはあるし
忘れることもない。


けれども、もう、
こわくない。

 


そんなふうにつきあえばいい、
という話を
しらずしらず
していたのかもしれない。


あるには、あるのだ。
なくしても、無くしても。
なかったことにしようとしても、
消そうとしても、
それはまた出てくる。


だから、あるものとして、
つきあうことを考える。
考え続け、変化し続ける。


そういう話が
なんの構えもなく
できるようになるぐらいには
おおきくなっていた。