ほんとうに、この章はオシマイ、だったなあ・・・そして。



しばらくぶりにここをみる機会をもらって、読んでみると、
うわ~、いたい、かゆい、という感じだった(笑)。



思ったことを書きとめることは、ずっとずっと子どものころからやっていて、
それを友人に手紙として出したときもある。
相当な量になっていたはずだけれど、それらは、ちっとも残っていない。



何年かたって、たとえば卒業だとか引越しだとかの節目に、
まとめてそれらを読んで、「うわ~、ばっかみたい!」とか、
「かわいいね~へいわだね~」とか思って、
その場でビリビリ破って、勢いで捨てちゃうんだ・・・。


ガラリと自分が変わるときというのが周期的にある。
それは、成長したんだなあ、と思って、
次にすすむ前の儀式みたいにもなっていたんだけれど。



今度は、これは、そのまま、残すことにしようと思った。



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そんなわけで、未熟ではありますが。
さらに、、、固有名詞はなるべくぼかして、
誰が書いているか、すぐにわからないようにしていたこともあり、
具体的でなくてわかりづらいところもありますが。
もしも、身近な人にもシェアしたいと思うようなことがありましたら、
どんな人にでも、お知らせください。
育児まわりのことなど、なにか、どなたかのお役にたてるようなことも、
含まれているかもしれません。
推敲せずに書いているからこそ、そのときのリアルが、
どなたかに響くということも、あるかもしれません。
そう、今のわたしが整理だてて語ったら、まったく違うものになってしまうようなことが。
もしや、そんなことも、ほんの少しは、あるのかもしれない。
そう思い、これはこのまま、置いておくことにします。

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ほんとうに自分だけのためにメモ的にはじめて、
つぎに、相方への日々の報告のような気持ちもでてきて、
そのうち、近い友人にも公開するようになって。
育児生活の合間に、かろうじて、推敲もせずにメモしていただけだから、
ずっと書き方は変わらなかったと思っていたけれど。
やっぱり、近くて濃い関係の友人たちが読むようになってからは、
意識しちゃっているような投稿もあったみたい。
または無意識で、なにか伝えようとしている文章になってしまっていたのかも。
特定の誰かを意識したつもりはまったくなくても、
実は、その誰かにつつかれて浮いてきたことであるとかね。


自分の文章は、説明が多くなることがある。
核心より、背景の説明が長くなるようなときが。
昔は、もっともっと、そうだった。
何のためにかはわからないが、それを鍛えるためにも、と、
とにかく毎日の更新を守ることにしたのだった。


それで、気づいた。


伝えようとしたとき、というより、
わかってもらおうとしたとき、長くなるんだ。
それが逆に、伝わらない文章になったりしているんだなあ。


メールでも、たぶん、よくやっていた。
わかってもらおうとするあまりに、
相手がその時、はまっている人の言葉をかりて、説明しようとしたりして。
それって、相手にも、相手がはまっている人にも、相当失礼だ。
そして自分にも失礼だ。


ただ、自分が感じることとして、自分の言葉で、
自分の表現として、そのまま出せばいいだけだ。
どう説明しようが、相手は、自分ではないのだから、
解釈の仕方は、どうにもならない。
どんなに相手を思いやったって、相手の全部がわかるわけではない。
思いやりきれるわけが、ないのだ。


どう書いたって、受け取り手が、
そのとき受け取りたいように、受け取るだけだ。



自分から何かを出すならば、
その後につづくことに責任を持つ覚悟で、
正直に、ハッキリと、自分を表現すればいい。


そしてそれは、文章だけのことではない。
それが自分で立つ、ということだ。


自分で立つ勇気を持てば、自由になる。


『恐れるものは、何もありません。
 ただ、まわりすべてへの愛があるだけです。』
というのは、ボウズの園の祈りの言葉。
か~さんも毎日の日課に追加するよ、その祈りを。



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ご縁があれば、別の場所で、またお会いすることでしょう。
ありがとうございます。