この章はオシマイ、ありがとう!!



ただ “ 意識をあつめる ” ことが「天心の愉気」。
その言葉がはじめて、スッと腑に落ちた今週の日々だった。
手をあてることそのものだけではない。
自分を、他人を、生かす道だ。


なにかに夢中になって取りくめているとき、
共感して笑いころげているとき・・・
そういうときは、「わたし」が消える。
観念の自意識がとぶ。


そこに芯がなければ、ただふわふわ漂うだけだが、
自分の中心とつながっていれば、
いつでも、意識して落ち着くことができる。
やろうと思えば、どこにでも、錨をおろすことができる。


自と他との境界があるのは、カラダをとおしてだけ。


自分は、たぶん、意識して触れることによって、
つながることと、線を引くことを、カラダで覚えた。




痛みを感じる箇所があったので、
ふと思いたって、手をあてるより先に、
そこに意識を集めてみた。
頭のてっぺんからす~っとおろすように呼吸をして、
オナカのあたりをすとん、と落ち着けてから。


痛みは、徐々に拡散するように消えた。


これなのだ。




産後とくに、あたらしい知識を次々とつめこんで、
ワークショップだの講演会だのも渡り歩いて、
ボウズとの生活の中で実践・検証しまくり、
ボウズの自我が芽生えるころ、1度たちどまって。
昨年後半ぐらいからは、
取り込んだことを反芻し、表面的なことはそぎ落とすようにして、
日々の暮らしにていねいに向かい、自分の感覚を味わった。


反応して浮いてきた不要なものは流れ、
自分の器に見合ったものだけが身になって、
また新しい道にすすむときを迎えた感じがある。


もう、ボウズ “ 先生 ” を、解放しなくっちゃ!


か~さんこれからは、自力で学びの道をすすむよ。
教えてもらった感覚を大切にね。
今までどうもありがとう。
ほんとうにありがとう。
きてくれてよかった。


そんなボウズとの日々をともにすごしていただいたみなさんも、
ほんとうに、ほんとうに、ありがとう。


「日々是観察」時代、少なくとも第1章は、
本日・・・これにてオシマイ。