つながりが感じられるようになった



確実に手が変わった。
いろいろな手当法や心身のケアを学び、実践しはじめてから
はっきり自覚できる形では2度目のこと。
前よりも、カラダ全体が変わった感じがする。
つながっている、という感じ。
自分の中でも、自分の外とも。
地面を意識したり、自分自身の中心を意識すると、
自分の中に波のような流れを感じる。
どこにいても、すぐに。



手がうずく~、なんて、
ただそれだけの記事を数日前にメモしたけれど、
それしか書けないぐらいだったのだ。
それでもう、どうにもこうにも、いてもたってもいられなくなってしまって。
ボウズの園の今学期がオシマイ、という日になって、
衝動が押さえられず、けっきょく、お手当の師匠のところへ駆け込んだ。
行きも帰りもギリギリスレスレの時間で、
これまでは、躊躇していたんだよね。
それだけ強く思えば、そりゃあね、やればできた(笑)。


確かめたかったんだ、とわかった。
これまでもやったことのある、
いろいろな体操や瞑想が、
全然、違ったものになっていた。
いちいち、よく味わえるようになっていた。



少し前に、痛みや吐き気で苦しんでいたとき、
カラダが勝手に、たとえば、
「尾骨の焼き塩」みたいなお手当を求めるような、
内側からの欲求をはっきり感じたんだ。
「なんだかわからないけど、ここに塩をのせたい!
 湯たんぽであっためるんじゃなくて焼き塩だあ~!!」というふう。
これまでだと、
「これこれこういう症状だから、きっとあそこが冷えているから、
 そこに温湿布してみるか。食事はああしてみようか・・・。
 ここを伸ばすストレッチをやって・・。」
というような流れでやっていた。
それでよくわからなくなって、講習会でのメモや、書籍を
パラパラみなおして、選ぶこともあった。


そういう過程をくりかえすと、
ほんとうに、カラダが覚えるんだねえ。
子どもをみていると、いつもそれを感じていたんだけれど、
大人だって、じっくりゆっくり取り組めば、
いつまでだって、変わることができる。
変えたいと思うならば。
つなげなおすことができるんだ。


それには、ただ言われたとおりやるのではなく、
まず、自分の症状を、感情もふくめてよくみつめて、
どの方法がいいか、自分で選んでみること。
そして、選んだら、その方法に、
疑いなく、任せてみること。
そのあとに、どんな反応がおこるのかおこらないのか、
自分だけの感覚を、しっかり味わうこと。
しばらくたってから何か反応がでたり、気づくこともあるので、
それらも、よくよく、感じつくすこと。


そうこうしているうちに、勝手にカラダが覚える。
無意識の感覚にきざみこまれる。
味わうことで、脳と心とカラダのつながりも、
意識できるようになるんだ。
そうなれば、しめたもの。
どんどん、楽に、楽しくなる。



カラダのことを学び、実践しはじめたのは、
もともと好きで興味があったこともあるけれど、
妊娠・出産で、もっと自分を・・・ヒトを、知りたくなったから。
子どもの育ちを助ける親としても、
そのほか、どんな人間関係をつくっていくことにも、
カラダをもっとわかっている必要があると思ったから。
そして何よりも、自分が、気持よかったから。
気持ちよく生きていくことに、どうしても必要な気がしたから。


同時に、食事を変えてみたのは、
きっかけは、仕事三昧の生活での体調不良や、
妊娠で敏感になり、食べられないものがたくさんでてきたことからだけれども。
食べることが大好きだった自分としては、
どうしても、自分で実験してみたかったんだ。
確かめてみたかった。
子のアレルギー傾向に気づき、自分自身の体調不良にも向き合ううち、
いろいろな食事法に出会い、そのなかで、
「○○を食べると、カラダは××の影響を受けます」
なんていうことを色々と目にし、耳にして。
どうして、いろいろな人に対していっぺんに、
きっぱり言いきれるのか、しっくりこなかったんだ。
そのまま、どれかの方法をなぞる気にはなれなかった。


それで、とにかく、やってみた。
自分でやってみたいと思えることから、かたっぱしから、やってみた。
おいしくなかったらやらなかったけれど、
まず、ビックリするほど、自分の料理がおいしくなったから、
おもしろくて、とまらなかった。
妊娠中の敏感なときだったこともあって、
また、取り組みやすい生活事情だったこともあって、
やめられなくなった。
ちょっとしたことで仕上がりが変わることに驚いたり喜んだり、
「アクなんて抜かなくていいんだ、そうよねぇ」なんて実感したりするうちに、
素材と向き合うことに躊躇するということも、少なくなってきた。


食事のことは、生きるために毎日、まわりの在り方から、
無意識でも必死で吸収してきたことだから、
そのとらえ方と一緒に、しみついているものがたくさんある。
産まれてすぐから、いや、オナカのなかから、だ。
食事を変えるということは、方法としては、てっとりばやく、
自分の意志ひとつで簡単に、今すぐはじめられることでもあるけれど、
そのしみついた根っこのところまでの気づきには、
そうやすやすと到達できるものではない。
そう簡単に、しみついた観念を手放すことはできない。
しんどくなることもたくさんあるので、
よほど物好きか、修行でもする覚悟があるか、
なにかとにかく、自分でコレ、という意志がないのであれば、
うかつに手を出すようなことではないと思う。
でも、だから、「自分で決める」ということの訓練になる。
それは、一巡りしての感想というところなんだけど。


自分の知る限りの食事法は、どれをとっても、
ただ「食事」だけを切り離してそのままなぞることは、
誰にたいしても、とてもオススメできるようなものではない。
世の中だって、地球の環境だって、どんどん変わっている。
そのことがわかった上で、自分の責任で取り組まないと、
新興宗教にはまるのとおんなじようなものだ。
それは、暴言かな(笑)。


・・・と、書いてみると、けっきょく、
食事法に限ったことではないんだけれども。


それで、矛盾しているようだけれども、
型をなぞるということが有効なときもあるんだよね。
どこかに軸をあわせることで、みえてくることがあるから。



自分のなかで、これまで取り組んできたこと、
今の生活、今の自分の心身が、ひとつ、まとまったみたいな感じ。
というわけで、ますます、実践が大切だな!