「参加者」でなく「仲間」がほしいことと、つづけること

「今ここ」でしかない子たちをみていると、
失敗なんていうことは、本質的にはないのだ、と
心があたたまる。
とり返せないことなんてない。
そもそも、とり返す、なんて、考えなくていいのだ。


さっきまで、ちょっとビクビクしながら距離をとっていても、
「自分の味方だ」とか、「信頼できる」ということを体感したとたん、
パッ、と向きを変えて共に歩きはじめることもできる。


今は、そういう姿も、
少し遠まきに眺めることができるシアワセを、
日々わけてもらっている。
そして、そういう関係は、
ただただ、つづけることのなかに
育まれるものだということも、
学ばせてもらっている。


たとえば一度、ケンカのようなことになり、
その場で、そのことによる不安感や不快感がぬぐえなければ、
そのイメージだけが残ってしまう。
これが、その次に会ったときにほどければ、
すくなくとも子たちは、たちまち、共に歩めるようになる。
次にはまたケンカみたいなことになるかもしれないけれど、
そういうことのくり返しがつづいていく、という感じがあれば、
大丈夫だと思ったんだ。
そのつづいていく感じは、まわりで見守る大人が持っていれば、つうじる。
そういうおおらかさで、つつんであげられていればいい。


つづけること、くり返し、慣れるということ・・・


子との過ごし方を選ぼうとしている今、
そんなことに関する気づきと試練の連続なのだけれども。


いつだって、自分が求めていたものは、
「参加者」としての立場でも、「参加者」を集めるという立場でもないんだ、
ということが、浮かびあがってきた。
仲間がほしいんだ。
ボウズにとっての仲間が必要になるのは、まだ先のこと。
大人が、仲間としてふるまえる場が、
自分にとっては、安心して活動できる場だ。


それこそ、くりかえされる日々の出来事のなかで、
何度もそれが浮かびあがり、はっきりしてきた。
その点では、自分はずっと一貫した気持ちと共に立っている。
あとは現実的な問題との兼合いというだけなのだ。
そしてそれは、現実的な問題に変化があるならば、
そのときごとに、あたっていくしかない。
それがみたところ、一貫していないようにみえても、
誰にも言い訳したりしないように!(>自分よ・・・)



そういうふうに理論武装したりする若さの時代は、もう終わってるぞ!
・・・というのは、相方のツッコミだったんだけどね~。
説明グセについて書いたばかりだけど、
そういうことをすると、自信のなさに、自ら、余計にハマるだけだよね。
そのエネルギーを、本質的なことにまわしたまえ!(>自分よ・・・)