結果のわかっていることは楽しくない?



結果が求められることを楽しめない、
決めたくない、という気持ちは、
誰よりも自分が結果にこだわっている、
ということをあらわしているのではないか?



中学生のころ、一時、絵がまったく描けなくなった。
美術の時間、ほんとうに何も出てこなくて、
でも仕上げないといけなくて、え~い、と、
ドラえもんと富士山をなぐり描きしたことがあったぐらい。
それ以降、心から楽しんで絵を描いたこと、
ないかもしれない。



さいきん、ボウズが「絵の具しよう」と言う。
手でぐちゃぐちゃにしながらペタペタとやる。
うまくその気分にあわせて乗れるときには、
なにも考えずに、ほんとうに楽しい時間になる。
ちょっと何か形になるものを描いてやろう、と
か~さんだけ別のきれいな紙を用意したりすると、
手クセで、つまらない絵になる。


「にじみ絵」だとか全然知らなくても、
水をいっぱい使って、じわ~んと混ぜるうちに
境界が消えて行く快感を知って、
水をたっぷり使った水彩画が好きになった。
つけすぎちゃった水をティッシュでポンポン押さえると、
またおもしろいことが起こると気づいたりもした。


そのうち、はじめに出会ったそのときの気持ちは忘れ、
それはただ、「描き方」になってしまい、
気持ちが描くことに向かう前に、手が勝手に
水をつけたり押さえたりするようになってしまった。



ここからも、自分がどんなに、
ちっぽけな観念に簡単に縛られてしまうか、わかる。
縛っているのは自分。


自分で決めたようで、
ほんとうに自分の心から決めていないこと、
それが、楽しくないことだ。
目指すところを決めたって、
どうなるかはわからない。
それでも、まずは、道をえらぶ。
結果を選んだようで、それは、
必ずそこにたどりつくということを、
選んだわけではない。
一度決めたら、また、
ただ歩くことに集中することで、
進んで行けるのだ。


進んで行くうちに、また、
別の道がみえてくるかもしれない。
歩く方法は、歩きながらみつければいい。



「いないいないばあ」を何度も楽しみ、
毎回驚けるような、子どもの気持ちを・・・