裁かない



真夏日の翌日は一転して、高原の風、
そしてさらに今朝は、秋口のよう。
この変わりように、思索が深まったりして。
夏の暑さはまあまだまだ、戻ってくるだろうけれど。
新しい月、またあたらしい季節。



誰に言われるでもなく、
好き好んで毎日観察して、
そこから気づきを深めることも
日常になっているというのに。
せっかく、そういう流れは肯定しておきながら、
自分の観察結果を信用しないというクセがあり・・・


それは、「判断」してしまうからで。


自分がウキウキと自分から学びに出かけるのは、
日々気づいたことや、そこから疑問に思ったことを深め、
違う視点を加えることで、検証しなおしたいからで。
だから、自分の中で一段納得すると、
そこで一度、同じところから学ぶことを
やめてしまったりするのだけれど。
それをただただ、「飽きっぽい」なんて枠で
評価しなくてもいいんだよな。
自覚と責任を持っていれば、いい。


自分の観察考察も、ひとつの過程で、
その段階での区切りでしかない。
それを何かの指標で、絶対的に評価しても、
少なくとも自分にとっては、意味がない。



自分軸で学びを深め、それを他の視点から検証し、
行き詰まって揺れたときには。
自分を一度しまって、ひとつの別の軸に寄り添ってみる。
そういうときには、辛抱強く続ける意味もある。
でもそれも、自覚なしには、依存になる危険がある。
どちらも絶対ではないのだ。



そして、自分の外に、自分の学びからの気づきを出すときは。
あまり軸を意識する必要はないのかもね。
全体の中でそれがどうとらえられるのか、ということも、
気にしすぎる必要はないよね。
放ってしまえば、それは自分の軸とはまた別のものになる。
自分は、すべての軸を支配するわけではない。


自分軸の考察を深めることも、
全体の中での自分軸を感じることも、
今立っている位置を把握するには必要だけれども。
放つときは、無心で。



自分も、他人も、「評価」しない。裁かない。
支配ではなく、「ともに在る」ということ。