悩み、迷うのは、答えをすでに持っているから



自分の中にすでに答えを持っているか、
または、案外どうでもいいか。


自分が個人相談の類いになかなかいかないのは、
いざとなると質問がないということに気づくからなのだが、
それは、答えをカラダでわかっているからなのだろう。


ただ、自分の外の、
「正しいか/正しくないか」という点で、
迷っているにすぎない。
悩むのは、顔色をうかがっているのだ。
迷うのは、評価をおそれているからだ。


友人の導きで、カラダからのアプローチによる
個人相談を受けた。
受けることに決めてから、セッションはもうはじまっている。
当日までの友人とのやりとり、
自分の中でのもやもや、
けっきょく、とても順調な流れで行けたこと、
それはすべて一連の流れ。


子は、いつもより早い、ちょうど良い時間に起きて
準備するあいだ機嫌良く遊び、
自分の着替えセットをタンスから完璧に持ってきて、
半分は自分で着た。
45分、ラッシュの電車の中で、ずっと静かに立っていた。


セッションの最中は、抱っこしたまま、
ひさしぶりに眠りにつき、
終わると、静かに起き、帰り道までゴキゲンのまま。


 ○子は鏡。
 ○ひとりめの子はとくに、鏡。
 ○男の子はとくに、母を助けるためにきている。
…疑いようがない!!


行く前の道のりで「評価に対する恐れ」についてメモしていた。
日の出直後ぐらいに目が覚めてから、
今日までの友人とのやりとりや、
いろいろなセッションなどで感じたことが
ぽつぽつ浮かんでは消える状態だったんだ。
そのなかから、ひとつ、今日のテーマを選んで書いていた。


自分から質問するまでもなく、
導き手の講師の口から出たのは、
そのことだった。


そしてその根本的な原因についてひとつ、
あたらしく知ったことがあったが、
それを出すには、もう少し…。
うすうす感じていたことで、
手をつけられなかったことだった。


遠回りしているようにみえても、
その道のりが、自分にとっては最適な手順なのだ。
なかなか手をだせないうちは、
まだ準備ができていない。
やがて時がくるということだ。



そして行動にうつせないもうひとつの理由は、
「自分は、それを受けとるほどの価値がある人間なのか?」
という迷いだと思う。


セッション前のもやもやは、たぶんそれだった。
「それで、どうするの?」という感じか。


なぜそういうもやもやが起こるのか、
自分が、何を気にしているのか、
それを見つめれば、自分のなかの答えははっきりしてくる。
見つめると、心地良くない感情がわいてくることもある。
その感情の処理には、やはり、
他人の手をかりたほうが良いときもあるのだ。


それができれば、あとは、
行動にうつす術を身につければいい。
そこまでが、産みの苦しみのような道のりなんだよな…。