4年たって、雑記



このブログをはじめてから4年になる今日は、
ここのところ気にしていたことにまつわる雑多なことが
ぽつぽつ浮かんでは消えるような一日だった。


なにかはっきり答えのようなものが
みえたわけではないけれど、
まあ、それなりに順調で、
歩むべきところを歩んでいるんだな、と
力まずに感じられるから、良いのだろう。



じつは、「痛み」が気になって
たぶん、“ 確かめたい欲 ” から行動してみたのだけれど、
やっぱりそれは、すぐに結果のでることではない、
そのことだけがわかったというふうだった。


水疱瘡の子をみていても、やはり、
自分にいま必要な姿勢は、
「待つこと」なのだろうと思う。


たとえば「痛み」が、カラダの出すサインだとして、
すぐに対処しなければならないものだから
「痛み」というわかりやすい形であらわれているとしても、だ。
それにどう対処するかは、また幾とおりも、方法がある。


「痛み」があってあまり動けない、ということであれば
動けない、と否定的にとらえるのではなく、
「動かない」ことにすればいいのかもしれない。
動けない、と否定形でとらえるのはナゼか、
そこのところに注目したら良いのかもしれない。


いまの自分ならば、基本的には、
子と近所を散歩したり、家で相手をして、
洗濯と食事の用意をすることが最低限の生活。
だいぶ自分で行動できるようになってきた3歳のボウズとなら、
その最低限の生活は、やりようによっては、
「あまり動けない」カラダでも、
ゆったりペースならば問題がなく過ごせるんだよね。
動きづらいところを、少し工夫すれば良いだけだ。


それ以上の「やらなければならない」と思っていることは、
自分がやらなくても、どうにかなることなのだ。


気になったら、確かめればいい。
そして気づいたら、また自分に戻ってくればいい。
そのために人の手をかりてもいい。
かりたら、その瞬間は、潔くあずける。
そうすれば、自分の中にあるものが
相手をとおしてみえてくる。


「痛み」が気になって訪ねたところで、
いくつも「痛み」をみている手の持ち主から、客観的に
「そんなに悪くないですよ。良いカラダですよ。」
と言われること、それは、
「痛み」の原因を知りたいという欲からすると
期待はずれの答えなんだけれども。
「そんなに悪いはずはない、どんどん良くなっているはず、
 なのに、なかなか痛みが消えないのは一体なにが(悪い)?」
という、本質的な自分の問いには、完璧な反応だ。
その反応を得て自分は、いまの「痛み」が変化の過程である、と
ぼんやりとらえていたことに、より自信を持ったのだった。


それが正解かどうか、良いか悪いかは、このさいどうでも良い。
自分が、自分に起きていることを、肯定的にとらえること、
そのことだけが必要なのだ。



関連するのだが、自分が行動する前提の、
修行のようなことや学ぶことが好きだという気持ち、
そのうち何割かには、「目にみえる “ 結果 ” や “ 答え ” を急いで手に入れたい 」
というところもあるのだろう、と静かに自覚。


そういうふうに頭からつんのめるほど、
足元はおぼつかなくなるというのにねぇ~、ふふふ。


じっくりゆっくり自分のものにして
自分で考えて行動したい、
そのために学びたいし、鍛えたい、という、
そっちのほうの気持ちに、
もっともっと寄り添うこととしよう…。
行動するにあたってなんとなく感じるカラダの感覚や、
もやもやした気持ちが、そのどちらなのかを
示してくれているに違いない。



それから、ずっと心に残っていた、
20年来の友人たちの言葉もまた思いだされた。
「bbiyori ちゃん、(産後どんどん)仙人みたいになってるよ、
 もっと外に出た方がいいのかも?
 ……でも、これぞ bbiyori ちゃん、って感じもするけどね。
 まあ、たまには俗世でも遊んでよね。」


その友人たちとはちょくちょく会っているわけではないし、
マメに近況報告を交換しているわけでもない。
10代前半からハタチ前まで共有した濃い体験から、
それぞれ違った生活になっても、
ほそぼそとつながっているというふうで。
それだから、主観と客観をつなぐような、
いつも、ある意味とても的を得た気づきを
与えてくれるんだ。


まわりと同じような色や形になろうとすると、
かえってうまく交わることができない。
パズルのピースは、それぞれまったく違った形で、
そのデコボコがあるから、ぴったりはまることができる。
そして、ひとつではよくわからないデコボコしたものなのだけれど、
いくつかのピースがぴったりはまると、
なにか意味を持った、広がりのある絵になるんだ。


まずはひとつのかけらとしてデコボコさをハッキリ出せば、
そのデコボコに見合った別のデコボコとつながることができる。
つながっていることがわからなくなったり、
また変化したくなったら、いったん、バラバラに外れてみる。
そしてまた、他とは違うハッキリした形になって待っていれば、
そのうちまた、ハマルときもくるのだろう。


自分らしく在る、ということと、
客観性をもって社会生活を営む、ということは相反しない。
バランスのとりかたなのだ。
そして、はじめから完璧にバランスをとろうとしなくても良いのだ。
自分の力で立って、根ざすには、バランスをとることが必要だけれど、
同じ方法でガチガチに固めて形を守っていたら、折れやすい。


雨風にあたってもしなやかにゆれて美しい、
優しい新緑の森をながめながら、またそう思ったよ。




わかっているのだ。
痛みも感じて、身にしみてわかっているのだ。


いろいろな方法にも出会った今は、
ただ実践すればいいのだろう。
そういうところにきているということかな~。