咀嚼しなければ身にならない



またしても。


自分がここに、しばらく考えていたことを
さらっと、まとめのように書けたとたん、
他人の口からそれを聞ける機会に出会うという…。
本日も、そんな日になった。


ほんとうはもっとじっくり聞きたいと思っていた講演、
ボウズの保育がままならず、ほんのさわりしか聞けなかった。
でも、それで充分だったんだ。


他人の知識や決め文句をネコババして(この言い回しは今日いただいた、へへ)、
自分を、自分以上に高めようとなんてしなくて良いということ。
本を読んだり、講演をきいたりする気持ちに
「もらえるものだけいただこう」という、
よこしまな、欲張りなものがあると
いただいてきたとしても、効かないのだ。
その物事にかよった魂とは、
つながることができないのだ。
それは永遠に借り物の器となり、
つくろい続けなければならず、
そのことに膨大なエネルギーを注ぐことになってしまう。


なにかを自分の中に取り込むには、
自分の中からわき上がる思いや
自分だけの経験でつくってきたカラダと
少しずつまじえるように、
自分をシッカリとおさないとダメなのだ。
食べ物を消化して、そのエッセンス、
自分にとって必要な栄養をとりこむように…。


今やっているボランティアのあれこれや産後の自分の体験から、
たくさんの人と共有したいと思っていること、
そのすべては、「うのみにしないで、自ら考えて」
ということにつながっている。


数日前に倒れた経験は・・・
このブログをはじめた日も倒れたのだけれど、
ちょうど約4年経過しての繰り返し。
さいきん新しく身近な友人が読んでくれるようになって、
そのおかげで、ほんの少し振り返って
過去の記事を読み直す機会があったのだけれど、
同じようなことに何度もハッと気づいているんだ。
繰り返している。
ゆるい螺旋階段を登るほどには、
少しずつ、その気づきの度合いや
自分の身になる度合いが濃くなっていると思うけれど。


自分がいまひとつ抜けきれないところも、
ここに何度も繰り返し書いている。
わかっているのに、やめられないのは、
思いグセが捨てられないからだ。
捨てたくないのだ、恐いから。
腰痛がなかなか、すっかり良くならないのも、
自分がそのぐらいの言い訳を
残しておきたいからなのかもしれないと思う。


何に対しての言い訳か、といえば、
自ら責任をとることに対して、だな。
「なにも自分は特別なつもりじゃありませんよ」
というようなことか。
そのくせ、縛られることを嫌うのだ、ふふふ。
わかっているのだ、ずっと。


もっと世界とうまくいっていたような気がする
10歳ちょっとぐらいのころまでは、
そういうふうに自分をまわりにすり合わせることがなかった。
孤独が恐くなかった。
10歳ぐらいでも、孤独ということがわかっていたと思う。


それが思春期にうまくいかなくなるのは、
あきらかに、自立の問題で。
つまりは、三十路半ばだというのに、
いまだに自立できていないということなのだ。


そんなこと書いちゃって…と、
またバランスをとったことを書き足そうとするビビリ屋の自分とは、
そうやすやすとお別れできないかもしれないけれど(笑)。
ゆっくりでも、その自分で、やっていくしかないからね。
ゆるい螺旋階段でもね。
ま、咀嚼に時間をかけるタイプ、腸も長めか!?、ということで。