カラダさまの働きで成立つ自分



瞬時にセキ込むカラダの反応にハッとした。
まちがいなく、ほんの少しの小さな異物を
吐き出そうという反射的な仕組みだ。


はずかしい話なのだけれど、
落とした梅干しをどうしても捨てられず、
洗って食べたのだ。
割れたガラスにまみれていたものを。


なんだかここ数日、手がすべることがたびたびあった。
心あらずで作業しているせいなのか、
調理器具も器も、がちゃん、と落とすことが多く、
そのうちに、梅干しの入った容器を
冷蔵庫から出しざまにすべらせるように勢いよく落とした。


派手に粉々になってしまったガラスの破片と
まだたくさん入っていた梅干しをみくらべ、
カナシい気持ちで、やはりどうしても捨てられなかったんだ。
あやしいものは、外側をはぎ取って中身だけ出したつもりだった。


でも、たぶん、残っていたんだ。
次の日、疲れを感じたときになめたくなって
ほんの少しためらいながらも、よく見もせずに
口にほうりこんだとたん、咳き込んだ。


ノドの奥の上のほうに、ほんの一点、違和感を確認すると
じわじわその嫌な感じがひろがった。
しばらく、咳払いをするようにしないと落ち着かなかった。


ほんの、粉粒みたいなものだろうけれど、
ガラスという異物の破片。
このあと、どうなるんだろう、カラダは、
どう始末していくんだろう…と思いながら、
ほんの少しでも取り返しのつかないようなことがおこる可能性に
想像は広がっていった。
子に食べさせなくて良かったなあ、という思いとともに。


自分が幼稚園通いぐらいのころ、
目にゴミが入って、痛くていたくて涙もとまらず、
眼下にいって取り除いてもらったことがあった。
ものすごく痛かったのに、
上まぶたの裏からとりだされたそのゴミは、
脱脂綿の上で、じっと見つめないとわからないぐらいの、
直径0.1ミリもないんじゃないか、というものだった。
そのことも、なんだか鮮やかに思いだされて。


そんな小さな異変でも、カラダにとっては
たえがたい、大きな異変なのかもしれないのだ。
そしてカラダは、たえまなく、受けつづけている。
ゴミのように、固形で、目にみえるものでなくとも、
空気や、水に混ざったさまざまなものを。



頭で考えることというのは、
言葉にできるかたちで、いや、たぶん、
説明できるような文章になるぐらいのところまでで、
カラダ全体で自分がとらえていることの
ほんの一部分にすぎないのだ。


何か異変が起こったときに、
「原因はなんだろう?」と、あれこれ思いめぐらせることは、
そのほんの一部分の固まった記憶で、
もしかするとまったく見当違いの方向から
ややこしくかきまわしているだけなのかもしれない。


起こったことをつなげるように考えることは
その後につながる良いことのように思うけれど、
過去を見つめ直すように、起こったことを振り返る場合は
ちょっと注意が必要だなあ。


カラダは、つねに、反応している。
瞬時に、最善の策をとっているのだ。