なじんでいくまで


ああ・・
梅醤番茶
めちゃめちゃしみた。
美味しかったぁ~


しみている、
必要としているものだ、と
しみじみ感じられるということ

それがないと
こういうのは
あんまり
意味がない気がする


自分で決めて
続けてみる


〇〇の症状の時にはコレ、
みたいな情報から
本とか習ったことを参考にして
飲んでもいいけど
それだけに任せたらもったいない

ちゃんと全身で
飲むことを感じとる、
みたいなことを続けると



必要なときには
カラダが
あれ飲みなよ~
とささやいてくれるようになる

何となく
飲みたかったり
食べたかったりしたものが
ピッタリで
カラダにしみていくのを感じて
はっ、と気分も考えも変わる、
何ていうこともある

それをさらに繰り返して
意識できるようになって初めて
それは自分で
使えるものになる


そして、そういうことは
テキストだけでは
よほどの感性がないと
ちゃんと伝わらないような気がする

ここ何年か、
そのことをじっと
確かめ続けていたのかも。


でも!
テキストだけでピンとくる、
ということも、
確実にある。

だから
テキストで伝えるのも
ノウハウで伝えるのも
悪いことじゃない。


ないのだけど・・・

そういうことが
イージーな気がして
どうもモヤモヤするのは
何で何だろう、
何にこだわりたいんだろう?
何が許せなかったり
気持ち悪かったりするんだろう?

というと。


それはやっぱり
命への敬意が中心にあるかどうか、
というようなことだったのかなぁ。


だから、
自分がそれさえ忘れなければ
テキストだとか何だとかは
どっちだっていい。


受けとるときも、
自分がそれさえ
わかっていればいい。


ただ、何をやっても
何をどう習っても

自分がそれを使って
どう生きるか

それが本体なんだということ。
そこがブレていなければいい。


そしてそれが
ブレないぐらい
身になじむには・・・


というところは、
それぞれに任せたい、
というのが
わたしの好きなやり方、
それがわかっていればいい。


そういう態度ならば

すべてのことは
メッセージ

どんな反応も
どんな出会いも
使えるものになる。