見守る、と言うけれど


見守るって?


なんていうと、
セミナーのタイトルみたいですね。


どんな言葉も

人によって

その言葉を獲得した背景や
用いてきた歴史などが

それぞれ違うので

全く同じように感じ
全く同じように考える

なんてことも
まあ、ないだろう、
として

そのなかでも

見守るって
どういうことだろう

なんてのは
相当、
難易度?
バリエーションの広がり度?
高いんじゃないでしょうかね。


それなのにやたら
よく使われませんか?

育児やら
教育やらの
分野でね!


あなたは
説明できますか?


特に子どもまわりのことで
何か社会的に責任ある役割を
表立って、裏立って、
担うとき

わたしは
わたしの

『見守る』

を、その場ごとに
意識しなおしています。

ふりかえるごとに

気づきをもとにして

その意識は
更新しています。


そこに、いる、
立ち会う、

そんな感じの
シンプルな軸を
イメージしてから
肉づけしています。


現場ごとにならば
たぶん

そのココロを

説明もできます。



ただ、こういうのは
できれば
説明したくないです。


在り方は、
在り方で、
丸ごと
伝えたい気がします。



説明って
つまらない。



実はこれは、
20代なかばに

『感動がない』

という言い方で

あるテーマに対する
わたしの文章に対して
言ってもらったことのある
大事な、柱みたいな言葉です。


どうしてそうなったか、
今ではよ~く想像できます。

でも、
感動するかどうか、
ってところにも
いろいろあります。

説明で感動することもあります。

そういうことを
言い出すと
それこそ
イタチごっこ
キリがない気がします。


で、大事なのは、

その、なんだか
心に深く残った
言葉をきっかけに

わたしが
問いを繰り返し

自分なりの
検討を重ねた、

というところであって

もはや
きっかけとなった
言葉の意味など、
どうでも良いのです。


で、見守る、ってのは

ものすごく
きっかけとなる
言葉なんじゃないかしら、
と感じます。


やたらとみかけるのは、

想いに働きかける
言葉だからも
しれないなあ、って。


そういう言葉は、

それをもとに


操りやすい


ということも、

あるのではないかとも
感じます。




だから、みんな!




自分で決めません?


自分の

見守る

を。


その時々の

自分の

力量で。


そして、
いろいろな

見守る



見守る対象に

集まったら

いいですなぁ。。。



ひと でも

植物や動物 でも

地球  でも、

なんでも、

見守ろう と
するものに・・・



たくさんの

見守る が

集まるならば



いい、とか、悪い、とか

あんまり、
いっこいっこには

ケチつけたり
順番つけたり


しなくても



大丈夫じゃないですかね・・・



それとか、

ひとつの

見守る

に、決めなくてもねぇ。