熱がでた子をおいてでも



そのことを思うと熱くなる。
エネルギーが注ぎ込まれる感じがする。
もっと動けそうな気がしてくる。


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3年近くはまっていたボランティアスタッフの活動は
その芯からの情熱と、芯ではない立ち方のクセが絡み合って
つづけていたものだと思う。
立候補したのとは違う仕事が流れ込んでくるのをそのまますべて引き受け、
子はほとんど預けず、切かえのつかないまま続けるうちに、
いつしか、くり返しのパターンになっていた。
芯からの情熱で自然に起こった行動とは、ほど遠いものとなっていった。
目の前に積み重なる業務をこなすことが大半になり、
個人的にその場でやってみたいと思っていたことは全て後回しになった。
けっきょく、やりたかったことはほとんど実現できないまま、
整理整頓のような作業に入れこみすぎて力つきた感じ。
自分の都合よりも『やむを得ない(なさそうな)』他人の都合という名目のもと、
乗りかかった責任感と、区切りをつける余裕のなさで、最も多くの業務にあたり、
ときには家族よりもそれを優先し、眠る時間を削って作業することが続いたピークのあと、
ギックリ腰にまでなったんだよねえ・・・。


子がいると無理がきかないところがあるというのに、
自分がまたギックリ腰を起こすまで、区切りをつけられなかった。
ここに根深いクセがあることを、はっきり認識しながらも、ね。


そのギックリ騒動からほぼ1年かけて、これまたゆっくりペースで
少しずつ自分を大切にすることを実践するうちに、
また子も育ち、家族関係にもずっとゆとりがうまれ、出会いにも導かれ・・・


ひと呼吸、落ち着いたと思ったら。


それで、自分は、どこに向かおうとしているの?
どこに、どうやって立っているの?
・・・確かめられるような出来事がまた起こることになっているのね。
隠居するには早すぎるものねえ、
というか、これからやっと、ってところだものねえ、ははは!
まあ、隠居したいとは、思っていなかったけれどもさ。


***


昨日昼間に熱があるのを確認したボウズは、
きっと、か~さんがすっかり自分にかまけていた日曜も、
熱があったに違いない。微熱ぐらいは。
それでも、行って良かったとはっきり言えることに時間をつかえた、
そのことをこころよく、許してもらえている、という事実を、
しっかりと感謝して味わいつくさなくては、ねえ!


熱がある子をおいてでも、何かをやりに出かけることがあるかもしれない。
それは、決して、義務的にやってはならない。
義務的にしかできないことなのであれば、
後ろ髪をひかれるままなのであれば、やるべきではない。


そういう感覚は、この4年間の育児生活で、
たっぷり教えていただいた。
特別なことをしなくても、日常で、感覚は磨けるのだ。
たとえばお手当をしたあとには、料理するときの感じも違う。
包丁を持つ手も、素材を扱う手も違う。
逆に、料理をしたあとの手に、お手当の心を感じることもある。
ふだんから手をあてていれば、子に微熱以上の熱があることは、
計らずとも、背中に手をあてただけでわかる。
そういう体験的な学びは、自らの意志でつかんだものだ。
そういう学びだけが、血肉になり、自分からまた広がってゆく。


そのことにはっきり、自信と確信を持てる今は。
熱がある子をおいてでもやりたいことのような気がする、
そう思ったからといって、すぐに頭から動くことは、もうない。
外から武装しようとは、うっかりでも、ないだろうと思える。
そこのところの学校は、卒業できている・・・かな、たぶん(笑)。
で、どのように切かえをつけて現実にやっていくのか、というところは、
まだまだ、これからのボウズの園生活時代での自分の学びなのかな!?


そう考えたらワクワクしてきたので良し。
ほんとうにみんな、ありがとう~、だね。
今日はボウズと一緒に、1回休み!