感じていることを表現したい



やっぱりなあ。
ボウズとおなじなんだよなあ(笑)。


なにか出せなくてもどかしくて
イライラしたり、ザワついたりするのは。
出したい、という、そのもとのココロは。


感じたこと・・・
受け取ったエネルギーを、
また流したいということなんだよな。
適切な形で自分をとおしてまた流さないと、
なにか違ったものがたまってしまう。
それが、あとになって出てくると、
やっかいなことになったりするんだよね。


そのしまってあったところの容量がいっぱいになったり、
なにかのきっかけでフタがあいたりするとね。


感情は、反応の結果で、しまっておくものではない。
赤子のように、ただ泣きわめいたりするのではなく、
ヒトは、いろいろな表現の方法をとれるのだ。


笑いたくなることは、素直にその場で笑えばいいし、
怒りたくなることだって、その感情がわいた対象に
その場ですぐに出すことができれば、
そんなに悪いことにならないと思う。


ためこむから、極端なことになったり、
こじれて別のものになったりするのだ。


感じやすいということがあるなら、
感じやすい場合は、その表現方法についても、
より、学ばなくてはならない。
自分のために。



***

絵から感じたイメージのとおりに、
カラダとココロのおもむくまま、好きに踊る、
というワークショップに参加した。
おなじく、絵をみてもらった演奏者による、
即興演奏のBGMつきで。


はじめは、おどる、というと、
ワクワクと楽しい感じが連想されて、
色彩の鮮やかな絵に目がいった。
そういう絵を選ぼうとしていた。
その中でも、やっぱり、自分は、
にじみやボケ感のあるものにうつっていき、
その途中で出会った、決して色鮮やかではない
抽象的な風景画にたどりついた。


それは、海辺の絵だったのだけれど。
深いところ、濃い青から、
だんだんと波がひろがって
砂浜にたどりつく様子が、
自分の「表現したい」という感じに
とても近くて、共鳴したんだ。


そのおだやかな海辺に、白馬が一頭、
これまたおだやかに歩いている様子も良かった。
希望が広がってゆくように感じた。


今回のワークショップでは、
(いつもそういうことではないらしいのだが)
なんと、ひとりずつ、絵を選んで
みんなの前で踊るということになり。
はじめて参加したのに、「ええ~」と思ったのだけど(笑)。


絵に共鳴してしまえば、音を聴けば、もう大丈夫だった。


絵から感じた、オナカの底のほうの熱みたいなエネルギーを、
自分のカラダをつかって、とにかく、届けたい、
そういう感じに集中してみた。


自分の動きに反応して、また音が変わる。
音に共鳴して、自分の中から動きが出てくる。
そのうちに、観ている人の共感も伝わってくる。
演奏する人と、踊る自分と、観てなにかを感じ動いている人と、
その調和した中にいて表現できることが、
ものすごく気持ちよかった。
家でひとりでや、ボウズと一緒になら、
やっていることではあったのだけれども。
はじめて会った他人の前でできるということが、良かった。



行く前にちょうど、感じていたんだ。
自分が「出したい」と感じているのは、
たとえば、怒りの奥にある恐れを・・・
そのもとになっている傷のような体験を、
こじあけて引きだすというようなことではない、と。


感じていることを、表現したいんだ。


それができれば、過去に押し込めてしまった感情も、
必要なときに、まあるく一緒に出て行くのでは、と思った。


素直に表現することができなくなったときから、
ほがらかさが消えてしまった気がするんだ。
表現すること・・・自分は、ちょっと意識して
学びなおしたいところだなあ。
そして、ボウズには、いろいろな表現方法があることを、
みせられるといいのかな。
その表現が、受け入れられて、ひろがっていくところもね。