みえている景色は違うのだ


写真の補正について
比較をしながら
検討していた。


気になることがあって、
色味と、解像度のことに
注目していたんだ。


そのあとすぐ、外に出たとき、
つくづく、ちょっと違う目で、
いつもの景色を眺めてみた。
そう、そこを写真に撮ったら
どうなるだろうか、
という目で。


人は、目でとらえた像を、
脳で処理してから認識している。
すでに補正がかかっているんだ。


景色も補正してみているし、
補正した写真もさらに補正してみている。


同じものをみても、
どのように補正しているかで
見え方は大きく違ってくる。



太陽光の影響にあまり角度がない昼間、
光にフォーカスしながら
なんということはない
道路の景色を
写真に撮ったように
ながめてみた。



何にフォーカスするかで、
解像度が大きく変わるのが、
写真を撮らなくても
感じられた。


たとえば、簡単に言うと、
光だけをみようとして
影への意識が薄いと、
明るいけれど深みのない
ペラッ、とした景色になる。



写真に関わっていたら、
そのものと、脳で処理した像は違うこと、
意識するものなのだが。
商品写真を撮影する、なんていうとき以外は、
あんまりはっきり意識しないようにしていた。
そういう風に操作したくなかったから、
だったのだろう。


けれど人は、意識的であろうが、
無意識的だろうが、
どうせ!
操作しているんだ。


そう、天心では、ないんだ。
生まれたての赤子ぐらいな
ものの味方でなければ、
色がついている。


何度も気づきなおしてきたことだけれど、
もっと、ぞっとするように
深く気づいたことがある。


思いっきり、色をつけて
みていたい時もある。
けれど、わたしは、
どうしても、
なるべくまっさらなレンズで
この世界をみていたいんだ。


それは、その時に入ってくる情報だけが、
気もちがいいからなんだ。
どうしてもそこに近づきたいんだ。


そして、そういう風に
自分もみてもらいたいんだ・・・


もう、こわくない。
みるのも、みられるのも。