いつだって、源に



誰かを、訝しげにながめるとき。
嫌いになるとき。
あんなやつ、と怒りがこみあげるとき。
あんなやつだったのか、とがっかりするとき。


いったい、わたしたちは、
何をみているのか。


こういうことを説明するとき、
『期待』という言葉を使って
説明されることが多い。


けれど、本当に
そうだろうか?


もともと、
メリット・デメリット的に
あからさまに
こちらの益になることを
何かしら期待するような形で
近づいて行くならば。


益にならないと
わかった時点で
なんの引っかかりもなく
退散するか、切ってしまう、
それだけではないだろうか。



それだけで近づいてきていながら、
そのことを全く自覚せず、
相手のせいにだけして
去って行くようなケースだって
たくさんあるだろう。


それとは、また違って。


どうにも思い切れず
悔しいような気持ちで
相手を、なじるとき。


その裏には、
愛があるのではないだろうか。



本当は、そんな人じゃないよね?


とか、


本当にそれでいいのかい?


というような。


それが、思い込みの目で見た
利己的な言葉でないかどうか、
きっちり計って
証明することは難しい。


けれども。
なかなか簡単に切って捨てられないような
なんともいえないもどかしさを感じながら、
ただ自分が負けた感だけでなく
そういう想いを抱くとき、
それは、もしかしたら。



その人の本質に
初めから惹かれていたからなのでは
なかろうか。


それこそ、無自覚で。



だからこそ、
その本質に愛を注ぎ込み、
それが届かなかった、と
地団駄を踏む。


自分を顧みずに、だ。


そう、自分だって、
ウッカリや、シッカリと、
本質から離れることが
多々あるというのに。



そうやって
あがったり、さがったり、
飛んだりはねたり、
迷ったり見失ったり、
クネクネしながら
自分の道に戻って
自分の道をたどって
歩んでゆく人生は、
そんなに簡単に
切りとって判断できるような
ものではないというのに。


紆余曲折、
不幸もピンチもあるから
彩られ、心が動き、体を動かし、
動くことによってこなれて
磨かれるものだというのに。



だから、誰かのことを、
ちょっとでも、
そう感じたら。


長い目に、うつる。


自分のことなら、
俯瞰にうつる。


そして、長編物語のように
ながめてみたらどうだろう。