そうか、前提か


伝えることがあるのは当たり前。
誰もが、伝えるものを持っている。
短い自分の一生ぶんの経験などでない、
なんども再生を繰り返してきた
命の記憶を、持っている。
ひとりになり、全体に還る。
例えば10代に入りひとりになろうとする人と、
例えば40代に入り全体に戻りはじめた人とが
交錯するのはどこだろう。
どこか、この世代のテーマは似通っている。
自分の親、自分の子どもならば、血か。
血のつながりのない大人と子どもは?
興味関心嗜好といった、表面に現れてくる部分?
居場所、というようなことも関わってきそうだ。
自分はどこにいるのか。
それがつかめたなら安心してそこにいられる。
安心してそこから移動することもできる。
ひとり、歩きはじめるにしても、
全体の中に落ち着くにしても。
どうやっても、伝えるものは持っているんだ。
伝えようとしなくても、伝わっていくんだ。
どこに向かって歩いているか、
どこに落ち着いているか、
それは単に、外からみて目印になるだけだ。
目印を頼りに寄ってくるものがあったとして、
触れるのは、目印ではない。
目印の場所にいた、その人の全体像だ。
伝わるのは、全部だ。
何も考えなくても、伝わるのは、
ほんとうは、全部なんだ。
伝えようとしなくても、伝わるものがある。
ならば、今いるところとしっかりつながっていよう。
今いるところに安心して落ち着いていよう。
それは全部なのだから。
つながっている道、つながっている場所なのだから。
今こそ全て。