食べる・心・カラダ・・・中間メモ

食べることによるカラダの反応で気づいたことがある。
食べるものをいったん、グッとシンプルにしてみなければ、
気づかなかったであろうことに。




このことは、いつか自分のためにまとめてみたい、と思いつつ、
なかなかできなかった。
背景を明らかにしないとさっぱり意味が通じないようなことばかりで、
その説明をいちいちことわりながらメモすることができなかったから。


今も、とても書ききれないと思うのだけれど、
自分の中でちょっとひと段落したことを
いったん出したくなったので、メモ。




たとえば、甘くて油分も多いものを食べて、
鼻水がとまらなくなったりする。
この、食べたものと症状の関係性については、
ほんとうに関係があるのか、客観的に調べられるわけではない。
が、いったんシンプルな食べ方にして観察してみると、
自分で「あれ、何かヘンだな?」というふうに
だんだん、その因果関係にカンが働くようになる。


はじめは、知識を思いだす。
たとえば、「甘いものはカラダを冷やす」というような知識を。
それで、心配になったりする。
食べてしまっておいて、「冷やす、冷やす・・・」と。
食べる前から、「冷やす、冷やす・・・」と呪いをかけることもある。
そのために、大好きな甘いものでゆるむことができなくなったりもする。


それは、「甘いものはカラダを冷やす」という知識が、
かえって自分にとって悪い影響をおよぼすような状態のようなんだけれど。




自分の場合は、実験好きで、食べることも好きで、
料理も好きで、食材にふれることも好きだったから、
つくるのも食べるのも、大切な時間だったから、
どうしても自分で確かめたくて、
勝手に、ひるまず、つづけてみたというわけ。


その奥には、やっぱり、食べ方とカラダと心の関係に、
なにか気になるところが、ずっとあったからだろうな。
そして、それこそが、知識や、まわりの声の影響というだけでなく、
生き物としてのカンみたいなところなんだろうと思う。


妊娠・出産がなければ・・・
死にそうなぐらいおかしくならないと、
そのカンを無視しつづけていたかもしれない。




それで、この、そういう、自ら症状をつくりだすような、
「心配」が先にくる状態を、いったんとおるということが、
やはり、気づきには必要だったんだと、最近また、
一段先の気づきを得たんだ。


食べものとカラダの調子に注目しながら
食べ方をシンプルにすればするほど、
「あれ、何かヘンだな?」の感覚がはっきりしてくる。
そこでまたまずは、「このヘンは何が原因だ?」と、
人が体系づけた知識のなかから検索する作業にはまったりする。


そうすると、ついなんでも、
「これは○○を食べたからでは?」という見方に
偏ってしまう状態になる。


しかしまた、この、頭でっかちみたいな状態も、
一段先の気づきにいたるには、通るのが自然な道で。


食べることをおぼえてきた歴史の中で、
頭でっかちな食べ方をうえつけられた時代があるからね。


頭でっかちを解除するには、
「頭でっかちには頭でっかちを」が有効な瞬間というのも、
たぶん、あるんだろうという感じかなあ。




頭は、自分が体験したことを自分の都合でつなげているからね。
カラダは、ただ、もくもくと、やってきたものに対して、
バランスをとるように働く。
まわりにやってきたものが、
そのときのカラダからみて「あつい」ものだったら、
「ひやす」ように、汗を出したりするという感じで。


そして、心は。
カラダがあつかったら。
それが、自分にとって、「あつすぎる」状態だったら、
なんかヤダな、ヘンだな、と
ほんとうは、動いているんだ。


ただ頭が、その心の状態を、どう処理するかで、
自分の行動は決まるということなんだ。


「あつすぎる」ときだったら、食べるものも、
できればもうすこし、「ひやす」ことを助けるものを、
食べたくなるはずなんだけれど。
「甘いものはカラダを冷やす」心配が先にきちゃう状態だと、
頭でそれをおさえつけようとするんだよね。


それで、「あれ、何かヘンだな?」に、
ちょっとねじれた解釈がつけられちゃうのね。
そしてそのとき心は、やっぱり、落ち着かない。
だから、何度も何度も、「何が原因なんだろう?」と
人が体系づけた知識を探したりしちゃうのよね。


カラダと心をそのままの状態で結びつけて、
頭でしっかり認識・整理ができていたなら、
何度も調べ直したりしたくならない。
調べなくたって、素直な行動がでるからだ。
それでカラダも心もハッピーになるからだ。


調べたくなったのは、カラダや心の不調が
どうしても気になっていたから、だものね。
自分でその不調に対応することができると確信していたら、
そしてその考えが、単なる「知識」をはねのけることができたら、
頭から何かしようなんてことにはならない。




たとえば、甘くて油分も多いものを食べて、
鼻水がとまらなくなったりする。
でも、同じものを、同じだけ、もしくは、
もっとたくさん食べたのに、
先週は、カラダも心も調子が良かったよな、
ということに、そのうち、ようやく気がつきはじめる。
頭ではなく、感覚的に、気づきはじめる。
「ハッとする」という気づきかたが、
自分のいう、「感覚的」な気づきなんだけれど。


甘くて油分の多いものを食べると、
カラダは、冷やされるかもしれない。
でも、それがカラダにとって「冷たい」かどうかは、
そのときの、個人的な状態によるのだ。
そして、それを知らせるために、心が動く。
カラダには反応が出て、心も、動くんだ。


甘いものを食べても調子がよかったときは、
「心から」甘いものが食べたかった。
鼻水がとまらなくなってしまったときは、
今日は積極的に食べたい感じではないのだけど、と思っていた。
そんなときは、食べても、それほどおいしくない。
たくさん食べたいとも、思わない。


「心から」と「カラダから」にねじれがなくなれば、
悩んだり、頭でこじつけたりする必要がなくなるんだ。
間違ってとりいれそうになっても、すぐ寒気がしたり、
まずいと思ったり、反応がちゃんとでるから、
そこで気づいて、途中でやめたりすればいいんだ。


「食べたいものを、食べたいときに、食べたいだけ」食べれば、
心身ともに安定する、という状態が、やってくる。




頭でっかちなときに、いきなり、
「食べたいときに、食べたいものを、食べたいだけ」をやっても、
心身ともに安定するまでには、なかなか至らない。
その食べたいものを、材料から手にとってえらんで、
食べたいように、仕上がりも自分で想像しながら、料理してみる、
そういう、自分の手をつかう作業もしながら、
だんだん上手になるというようなこと。


そしてこれは食べものに限った話ではない。
自分の行動すべてが、そういう仕組みになっている。
心身の不調は、頭と心とカラダが、バラバラだから起こっているんだ。
もっと深いところでは、そこに「魂」とよばれるようなものが、
からんでいるかもしれないけれど・・・。


そして、自らの「心配」もまた、心身の不調を呼び起こす。
もしかしてほとんど、「心配」が原因なんじゃないだろうか、
というぐらいに。
ただ、「心配」している状態になっているとは、
気づいていないこともたくさんあって、
頭ばかりでなんとかしようとしていて・・・。


わいてくる「感情」、
あらわれたカラダの反応=「症状」に、注目すると、
自分のほんとうの欲求がわかってくるのではないだろうか。
くしゃみや鼻水みたいな症状だけでなく、
わいてきた「感情」も、反応だ。
だから、それらを押さえても仕方ない。
外からの刺激に対して、反応がおこるモトになる何かが、
自分のどこかにあるということなんだから。





自分の行動のパターンが
どの頭と心とカラダから起こっているのか、
どんな心配を手放せば心身ともに安定するのか、
それはとてもとても個人的なことで、
誰しもに通じることなんかなくて、
やっぱり、自分で気づくよりほかない。
だからといって、自分の頭だけで考えたってダメなんだ。
心とカラダと仲良くやらないとダメなんだ。


そのために、
まずは考えをさておき、
人の体系づけた軸にそって動いてみたりすることが、
有効なんだ。


食べ方をシンプルにするというのも、
わりと自分でやりやすい方法だと思う。
でも、やりやすいだけに、
頭のクセで続けることができてしまうことでもある。


心とカラダを、自分の感覚でみつめながら、
ただなぞらずに、確かめながら、
様子をみてやり方を変えていけるならいい。
ただ言われたとおりを頑固に続けすぎると、
それはまた別のこだわり、執着を産み出してしまう。
あたらしい頭のクセをつくってしまう。


自分の行動が自分にとって良いものかどうかは、
自分にしかわからないのだ。